2015年10月31日

正しい佐渡島旅行入門1

 四日間、宿をお休みして、故郷の佐渡島に行ってきました。息子を実家の両親に見せるためもありましたが、嫁さんの海を見たいという希望も兼ねています。海なし県の群馬県民であるうちの嫁さんは、年に1度海を見ないといけない体らしいんですね。

 というわけで、群馬県の北軽井沢から新潟県の新潟港に4時間かけて車で向かいました。本当は直江津の方が圧倒的に近いのですが、直江津から向かう船は全席座席指定であるために、やめました。やはり船旅は、カーペットの上に寝ながら海を眺めつついきたいからです。ちなみに下の写真は、佐渡汽船乗り場にある駐車場です。


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非常に分かりにくい所にありました。しかしどんなに分かりにくても、佐渡汽船の駐車場に止める車を駐車するべきなんです。というのも、佐渡汽船にを利用したお客さんは、駐車料金が半額になるからです。切符を買うときに、駐車料金が半額になるチケットを必ず請求してください。

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ちなみに、駐車場は立体駐車場になっていて、 3階の駐車スペースに止めるのが便利です。というのも、佐渡汽船ターミナルへの連絡通路が3階にあるからです。もちろあと屋上なんかに止めると、雨の日に苦労しますからね。もちろん群馬県民の私は、屋上に止めました。車庫入れがめんどくさいために、誰も止めたがらないスカスカの屋上に駐車しています。

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 途中、佐渡杉の宣伝ポスターを見つけました。このような巨大な杉は、大佐渡山脈の稜線上にたくさんあります。こんな事は、 30年も前から私らが知っていたのでことで、取り立てて珍しいことではなかったのですが、今佐渡島ではこれらを観光資源にしているようです。下の写真を見て、笑ってしまいました。実は、この杉もよく知っているのですが、いちいち名前をつけるんだなぁと思ってしまいました。

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 私は大佐渡山脈を何度も縦走してますが、これらの杉の大木に何度も助けられています。このような杉があると、明日の杉の放つフィトンチットのおかげか周りに雑草が少なくて、山歩きが楽なんですね。ビバークも、杉の木の下で行ったものです。あと、昔は大佐渡山脈縦走ルートというものがなかったですから、杉の大木が稜線上のルートとしてよい目印になったんですね。

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話を戻します。
佐渡汽船のことです。

最近の佐渡汽船は、船が大きくなって上の写真のように、豪華感が出てきました。思わず、階段を上がって2階の客室に陣取りたくなりますが、船は上に行けば上に行くほど揺れるんですね。もちろん前のほうも揺れます。後ろのほうも揺れるのですが、前ほどではありません。真ん中か、後の客室に陣取るのがベストです。

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混んでいたら、毛布を300円でレンタルします。これは、場所取りのために使います。毛布を広げて多少とるわけですね。下の写真のように、折りたたんだままではあまり意味がありません。きっと島民以外が借りたと思われます。

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ちなみに、多くの人は窓側に席を陣取ります。波が静かな場合は、それでもいいでしょう。しかし、波が荒れる場合は、やめたほうがいいです。窓際は揺れます。船の中心線上が1番揺れません。どうしても窓際に陣取りたい場合は、頭を船の真ん中に向けて寝るといいです。今回は、島民と思われる高校生の団体さんが真ん中を占拠していました。さすが、島の連中は物事をよくわかっています。

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まぁそんな事はどうでもいいとして、息子と一緒に船内を散策してみました。佐渡汽船もずいぶん立派になったものです。ゲームセンターやレストランやイベントホールなんかがあって、お客さんが飽きないような工夫がこらされています。おかげでうちの息子は、大はしゃぎで船内を歩き回り、 2時間半の船旅は、ずっと船の中を歩き回るハメになってしまいました。

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息子はかなり船酔いに強いみたいです。
それに対して、海無し県に生まれた嫁さんのほうは、船酔いで散々だったようです。

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ちなみにこれは、日本海の夕日です。美しい夕日ではありますが、この日の日本海は緊張感いっぱいだったようです。自衛隊の戦闘機が緊急発進して、国籍不明(おそらく中国)の戦闘機に対してバトルしていたようです。その時の飛行機雲が夕日にいくつも連なって非常にきれいな夕焼けを見ることができました。船内にいた地元の人に聞くと、珍しくない光景らしいです。

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やがて日は沈み、佐渡島の両津港が見えてきました。

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空を見上げると、夏の大三角形が鮮やかに輝いていましたが、
天の川に何本もの飛行機雲がかかっていて、
天の川は、少しぼんやりしていましたね。

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posted by マネージャー at 12:36| 佐渡島 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月28日

自分に対して忠実になれ

自分に対して忠実になれ

 私たちは知らず知らず旅をしています。これは防衛本能のようなものです。旅をしないと精神が参ってしまう。日常だけの世界に閉じこもっていると心が参ってしまう。だから旅をするのです。非日常の世界に入るのです。それによって自分を客観的に見つめ直すことができるからです。

 日常の中だけにいると、自分を見失うことがあります。気づかないうちに自分が自分でなくなり、1つの歯車として、機械的に動くだけの存在のようになってしまいます。

 日常に忙殺されるうちに思考能力が低下していって、機械的な毎日をおくるだけになってしまいます。そうなると、自分の意志は消滅してしまい、機械における部品の一部として評価されるようになります。

「悪い部品だ」
「役に立たない部品だ」
「良い部品だ」

と世間にいわれては一喜一憂し、機械の部品として悩み、機械の部品として落込み、機械の部品として喜んだりします。そして自分でもわからないうちに、日常という機械装置に潰されてしまってまうのです。

 日常にゆだねる。それは非常に楽な生き方でもあります。けれど、自分自身を見失ってしまう可能性のある危険な生き方でもあります。
 気がついたら集団の中で自分の個性を殺されかけていたり、生きることの意味を見失っていたり、快楽的な世界だけにおぼれていたり、何をなすべきか忘れてしまっていたり、ヒステリーを起こしたり、ネガティブになって親や学校や会社や社会を恨んでしまっていたり、ひたすら自分を蔑んでいたりするものです。

 機械的に生きる毎日。
 日常の中に埋没する自分。

 こういう生き方は、楽で確実な生き方でありますが、ある時、気がつくと、ポッカリと心に穴があいてしまっていることに気づきます。そして無性に淋しくなることがあります。

 人間は、日常の中だけに生きることはできません。機械的な人生の中だけに生きることもできません。その方が楽なのに、そういう人生だけ送っていると必ずその反動がやってきます。

 日常は、自分自身を追い詰めます。そして追い詰められた自分は、なぜ追い詰められたのか知ることができずに悩みます。そして、宗教にたよったり、本にたよったり、友人に相談したりして解決の糸口をみつけようとしますが、日常の中から飛び出さずに解決しようとすると、なかなか解決がつきません。

 人間は旅をしないと心が病気になってしまいます。不思議なことですが、旅をしないと頭がおかしくなってしまうのです。けれど誤解してはいけないのは、旅と旅行は違うということです。旅と移動も違うということです。旅行しても移動しても、日常から脱出できるとは限りません。ここが重要なポイントとなります。

 ここで「旅」という言葉を考えてみましょう。
 旅とは何か?
 旅と旅行はどこが違うのか?

 旅行は移動をともないますが、旅は必ずしもそうではありません。そこが違います。例えば「心の旅」なら、心の放浪を意味するのであって、これは肉体の移動をともないません。また「人生の旅」なら、未知なる人生を求めることであり、これも場所の移動をしめす言葉ではありません。つまり「旅」という言葉には、きわめて漠然とした範囲の広い意味があります。

     旅>旅行>移動

 けれど旅も旅行も、ともに非日常であるという点では一緒です。違うのは移動をともなうかどうかです。例えば移動しない「旅行」というのは存在しませんが、「旅」は必ずしも移動をともないません。心の旅、地図の上の旅、人生の旅・・・・。どれも移動をともないませんが、旅であることは確かです。
 列車で移動しなくても、小さな部屋から一歩もでなくても、旅をすることは充分に可能です。非日常の中に自分を投げ出せば、それで立派に旅をしたと言えます。以上の点を整理すると以下のようになります。

旅 ・・・・非日常・・・・必ずしも移動をともなわない
旅行・・・・非日常・・・・移動をともなう
移動・・・・日常 ・・・・所用のための移動

 旅・旅行・移動。この3つを比較すると「旅」の正体が見えてきます。旅とは、日常を脱する行為であって、必ずしも電車や飛行機でどこかに出かける行為ではないのです。そのように考えると、人はいろんな旅をしていることに気が付きます。

 冒険という旅。
 心の旅。
 思索の旅。

 いろいろな旅をします。しかし、必ずしも人は旅行をするとは限りません。出無精で旅行をしない人もいます。しかし、そういう人たちも必ず旅をしているものです。心の旅。思索の旅。宗教的な旅。学問の旅。旅をしない人など存在しません。なぜならば人生は大いなる旅でもあるからです。

 そういう意味では「旅」という概念は「旅行」という言葉のもつ意味よりも広く深いものがあります。そして、非常に個人的な行為であることに気がつきます。

 日常というのは、ごく個人的な空間であり、あくまでも自分の身の回りにある身近なことを日常といいます。そこから、脱出することが旅であるならば、旅という行為は、非常に個人的な作業であるわけです。

 旅は、他人のためにするものではなく、あくまでも自分のためにする行為です。仕事のためでもないし、出世のためでもないし、名誉のためでもなければ、社会に貢献することのためでもない。そういう旅がないとは言えませんが、基本はあくまでも日常から脱出することであり個人のために行うのが基本です。そして、自分自身を見つめ直し、自分を変えることによって、世界を一変させることが旅における究極の目的でもあります。

 私は昔、世界中を旅したことがありました。その時たくさんの自称「旅の達人」という人に出会いました。彼らは会社を辞めて、アルバイトでお金を貯め、ガイドブックを片手に何カ月も世界中を放浪していた人たちなのでした。
 ところが、そういう人たちの中には、何カ国に行ったとか、どこそこに行ったとか、何ヶ月旅をしているとか、危ない目にあったとか、安い値段で旅したとか、自慢話しばかりしている人たちがいました。私は

「この人たちは、自分のために旅をしてないな」

と思い、こういう人たちは、旅の達人というより、海外旅行オタクなんだと思いました。
 旅の本質というものは、会社を辞めるとか、何カ月も旅行するとかではありません。遠いとか近いとかも重要な問題ではありません。回数を誇ることも関係ありません。そういう社会の評価と関係のないところに旅というものがあります。なぜならば、日常を脱出することが旅であるからです。
 日常というものは、個人的なものです。一人一人全員違う日常を背負って生きています。ならば、旅もまた一人一人全員違ってきます。そういうものに社会の評価をあてはめたり、他人と比較する行為は意味がありません。自分にとって「旅」であるかどうかが重要だからです。これを「旅人的正直」と言いたいと思います。

 脱線しますが、私は高校三年生の時に
『知的生活の方法/渡部昇一著/講談社』
という本を読むことによって人生が一変したことがあります。その本の最初のページには、
「自分に対して忠実になれ」
と書いてありました。

 例えば夏目漱石を読んだとします。その場合、本当に面白いと思って読んだかどうかが問題だというのです。本当に面白かったならいい。けれど皆が面白いというから、無理して面白がって読むのは自分に対して忠実でないというのです。
 何故ならば、小中学生あたりでは夏目漱石は理解できないからです。それを理解できるというのなら、天才か「自分に対して忠実でない」かのどちらかです。そして、もし自分に嘘をついて夏目漱石が面白いと無理に思い込んでる場合は、一生夏目漱石を理解できないまま終わるといいます。

 知的生活に他人のモノサシはいりません。夏目漱石が面白いか面白くないかは、自分のモノサシで決めなければ、本物の知的生活はできません。これを渡部昇一教授は、
「知的正直になれ」
と言っています。
本当に自分にとって面白いものを読みなさい。面白くないなら正直に面白くないと言いなさい。今は面白くなくとも将来は面白いと思える日がくる時もあるのだから、そうなる時期を待ちなさい。決して他人のモノサシを気にしてはいけない。それが知的正直であると言うのです。

 他人にあわせる。学校にあわせる。社会にあわせる。会社にあわせる。多くの人々は、世間という外側のモノサシに合せて生きる訓練を行ないます。だから高校生までの私には、世の中には、そういうモノサシしか存在しないと信じ込んでいました。けれど『知的生活の方法』という本を読んだ時、そういう認識がガラリと変りました。
世間という外側のモノサシに自分を合わせるよりも、自分のモノサシにあわせて生きる。つまり知的正直に生きることにしようと思いました。

 ただ誤解されて困るので念を押しておきますが、私も渡部昇一教授にしても「世間にあわせる」という行為を否定してるわけではありません。むしろ大いに必要であると考えています。しかし、それは自分の外面に限った話であって、自分の内面まで世間にあわせる必要はないということです。

社会のルールは遵守し、他人を不愉快にしたり、エゴを押しつけたりはしない。けれど自分の内面には、自分自身のモノサシがあって微動だにしない。それが自分に対して忠実になれということであり知的正直に生きるということです。

 他人の評判や、テストの点や、世間の噂話や、会社の成績などを全く気にしない。そういうことは気にしないけれど、自分自身に対して正直であるかどうかは気にする。しかし社会のルールは遵守する。それが自分のモノサシで生きるということです。

 脱線が長くなりましたが、実はこの「自分のモノサシで生きる」ということが「旅人的生活の方法」にとって重要になってきます。日常を脱出するということは、世間というモノサシから離れ、それに代るものが必要になってきます。それを求めることが旅における一つの目的にもなります。けれど、それを求めるためには「知的正直」ならぬ「旅人的正直」にならなければなりません。では、旅人的正直とは、どういう意味でしょうか?

【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』25号掲載文・2000)
posted by マネージャー at 14:13| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

2000年1月1日

2000年1月1日

 『風のたより』では、年末年始歴史の旅ツアーを行なっています。2000年の年末年始ツアーは、北陸地方を旅することになっており、正月1日午前1時頃には、金沢ユースホステルに泊って酒を飲んでいました。すると仲間の一人が
「死んでいたかもしれない」
と口走りました。驚いた私はわけを聞くと、会社での仕事がうまくいってないと言います。それを気に病んで「自分は駄目な人間だ」とネガティブになり、やぶれかぶれになっていると言います。私は馬鹿野郎と叫びました。そして、その叫びに驚いているツアー参加者に、
「おまえらの力を貸してくれ!」
と無理やりたのみこんで、その問題を全員で討議することになりました。意見は百出し、話合いは明け方まで終わりませんでした。話合いは、翌日の電車の中でも続きました。今年の年末年始ツアーは、語りあいに始まり、語りあいの中で幕を閉じました。

 けれど私の頭から
「死んでいたかもしれない」
という言葉は何時までも消えませんでした。旅人の中にそこまで追詰められる人がいるというのが信じられなかったからです。話合いをしている最中に、そういう気持ちに同調した人が大勢いたということにもショックでした。
 さらに、自分も昔、にたような体験があったことを思い出したために、なおさらショックをうけました。そこで、今さらなのですが、月刊『風のたより』誌上において、もう一度「旅」について語りたいと思い、この文(『旅人的生活の方法』)を書く決意をしました。

 スワヒリ世界では、特定の所用のための遠出のことをサファリといい、所用を伴わぬ遠出のことをテンベアと言って区別しています。これは私たちが「出張(所用)」と「旅行」とを区別しているのと同じです。どちらも空間的移動には違いありませんが、サファリとテンベアも、出張(所用)と旅行も、あきらかに違うことを私たちは知ってます。
 では、主張(所用)と旅行は、どう違うのでしょうか? 一言でいえば、「日常」と「非日常」の差であるかもしれません。同じ移動でも日常の延長を単なる出張(所用)と言い、日常を離れて非日常の世界に入ることを旅行であると考えると、旅行と所用(出張)の差が明確になってきます。

 では、日常とは?
   非日常とは?
 いったいどういう意味なんでしょうか?

 カゴの鳥は、カゴの外では生きていけません。カゴの中でのみ生きられます。そういうカゴの鳥にとってカゴの中が日常になります。そして、カゴの外が非日常になります。
 カゴの鳥にとってカゴは完結した一つの世界です。生きていくだけならカゴの鳥はカゴの外に出る必要は全くありません。自分で餌をとることのできないカゴの鳥にとって、餌がもらえないカゴの外は危険すぎます。
 これは私たち人間社会にもいえることで、私たちは、国家・法律・会社・家庭・友人・モラル・対人関係・・・・といった社会的なカゴによって守られています。そして、そのカゴの中で生きているわけで、カゴの外に出る必要は全くありません。こういうカゴの中での生活を日常と言います。
 しかし、私たちは時々、日常(カゴの中)から飛び出して、非日常の世界に入ることがあります。これを「旅」とか「旅行」と言ったりします。簡潔に整理すると以下のようになります。

日常(カゴの中) =個人の生活空間
非日常(カゴの外)=旅(旅行)

 ここで重要なことは、日常は、個々人によって別々であることです。一人一人の生活空間が全く別々であるように日常というカゴも、一人一人全く違っています。完璧に同じ日常を共有している人間など、この世のどこにも存在していません。
 ということは、「旅」という行為も個々人の日常の違いよって、千差万別になってしまうということです。「旅」のありかたは、個人の生活空間によって全く違ってくるからです。

 ここで私の体験を話したいと思います。私は、中学3年の時の夏休みに吉川英二の『宮本武蔵』を読みました。読むうちに震えが止まらなくなり爆発しそうになりました。1ページめくるごとに竹刀で素振りを行ないました。当然のことながら睡眠をとることもなく、全8巻を48時間かけて読破しました。

 読み終えた後は、全身からあふれるエネルギーの処理に困って、山ごもりをすることを決意しました。けれど、山に入ってすぐに後悔しました。今までカゴの鳥どうぜんだった14歳の少年(私)にとって、夜の闇ほど恐いものはありません。テントもアウトドアグッズも持ってなかった私は、闇と孤独の恐怖に耐えられなくなったのです。私は夜中、竹刀の素振りや座禅をして、闇の恐怖と戦いました。睡眠は昼間にとりました。
 こんなことを数日続けて下山すると、不思議なことに世界が一変していました。見慣れた町並みが違う町のように見えました。友人・先生・両親も全く別人に見えました。

 この話を友人に話すと鼻先で笑われました。受験勉強の追込み時期でもある中学校3年生の夏休みに山ごもりをすることの馬鹿馬鹿しさを延々と説きました。そういう暇があったら少しでも勉強をせよというのです。当時の私は、この理屈に何一つ反論できませんでした。
 日常の理屈からすれば確かにその通りです。山ごもりしている場合ではなかったのです。しかし山ごもりの味を覚えた私は、学校帰りに毎日、山を散歩するようになっていました。受験勉強も30分やっては1時間くらい夜の散歩をするようになっていました。受験間近なのに勉強時間は確実に減り、山歩きと夜の散歩の時間が大幅に増えていったのです。 そして、どうなったか? 成績は下がったのか? 逆にあがったのです。

 世の中には不思議なことがあるものです。無駄なことのように見えて無駄でなかったりすることがあります。私にとっては、山ごもりが、それにあたります。
 山ごもりをする前の私は、両親と気まずい関係にありました。学歴信者の父は成績が悪いと遠慮なしに私を殴りました。私が反抗的な目をすると、父は何かの電源コードを鞭のように使い、そのたびに私の背中の肉がむけ、血だるまになりました。こういう日常を毎日くりかえしていると、どうしても人間がいびつになってきます。こういう事が、人間関係や素行や成績に響かないわけがありません。それがまた父親を怒らせる原因となり、悪循環となってしまいます。

 悪循環。

 悪いことが悪いことを産む。そして、どんどん悪くなっていき、それがまた悪いことを産んでいく。そういう悪循環から脱出するには、どうすれば良いでしょうか? 循環を切るしかありません。めぐりめぐる日常の輪から離れて、非日常の世界に一時的に逃避するのです。私にとっては、山ごもりが、悪循環を絶ち切るきっかけとなりました。山ごもりの後の父は一変し、急にものわかりが良くなりました。しかし、今になって考えてみると、一変したのは父親の方ではなくて私の方だったのです。

 いつの時代でも親子関係・友人関係・職場関係でうまくいってない例は多いものですが、うまくいかない原因の一つに悪いことが悪いことを産むという「悪循環」があります。しかもその悪循環から逃げ出せない。なぜ逃げ出せないのでしょうか?
 人はみな「日常」という限られた人間関係の範囲内で生きています。そしてその中で、自分の働きかけが他人に影響を与え、それが再び自分にはねかえってきて対応を迫られます。その対応がまた他人に影響を与えるといった、いわばシーソーゲームのようなことを繰り返し、一つの循環の中に生きています。

 そういう中では、全ての事件において当事者でから、日常という世界を客観的にみることができません。日常に追われて生きる私たちは、日常から離れないかぎり、自分を客観的に見つめ直すことなどできないのです。

 けれど
「でも俺は何も困らない」
という人もいます。日常の中に埋没していて何一つ不自由しない人も確かにいます。こういう人は、よい循環(シーソーゲーム)の中にいるわけです。
 問題は、悪い循環(シーソーゲーム)の中にいる人です。悪循環に捕まってしまって抜け出せないでいる人です。そんな人は、日常から脱出して悪循環を絶ち切る必要があります。それで初めて日常の世界を客観的に見ることができます。

 私にとっては、山ごもりがそれにあたります。山ごもりの後、世界が一変していました。自分がいない間に世界は一変し、私はまるで浦島太郎のような存在になっていました。また、山ごもりによって自分自身が変ってしまった。

 それでも日常生活を続けていくと、以前の自分に戻りつつあることに気がつきました。それがたまらなく不安だった私は、学校が終わると2〜3時間ほど山歩きをしました。夜は、何時間も闇の中を散歩しました。気がつくと知らない村を歩いていることもありました。そして、自分の中にある『別の空間』を消さないように気をつけました。
 本能的にしたことですが、これによって自分自身の中から何かが湧き出てきて心を浄化しました。禅や暝想をしている時と同じような効果があったのですが、不思議なことに禅や暝想よりも、夜の散歩の方が効果が高いことに気がつきました。
 そうなると、もっと日常から脱出したいという欲望が出てきます。そして家出や旅をしたくなり、自分自身を異次元の空間に置いて、自分を見つめ直したくなったのです。思えば、これが私と旅とのかかわりの始まりでした。

【風のひとりごと】
(月刊『風のたより』25号掲載文・2000)
posted by マネージャー at 10:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

旅人的生活の方法

旅人的生活の方法

 『風のたより』では、年末年始歴史の旅ツアーを行なっています。2000年の年末年始ツアーは、北陸地方を旅することになっており、正月1日午前1時頃には、金沢ユースホステルに泊って酒を飲んでいました。すると仲間の一人が
「死んでいたかもしれない」
と口走りました。驚いた私はわけを聞くと、会社での仕事がうまくいってないと言います。それを気に病んで「自分は駄目な人間だ」とネガティブになり、やぶれかぶれになっていると言います。私は馬鹿野郎と叫びました。そして、その叫びに驚いているツアー参加者に、
「おまえらの力を貸してくれ!」
と無理やりたのみこんで、その問題を全員で討議することになりました。意見は百出し、話合いは明け方まで終わりませんでした。話合いは、翌日の電車の中でも続きました。今年の年末年始ツアーは、語りあいに始まり、語りあいの中で幕を閉じました。

 けれど私の頭から
「死んでいたかもしれない」
という言葉は何時までも消えませんでした。旅人の中にそこまで追詰められる人がいるというのが信じられなかったからです。話合いをしている最中に、そういう気持ちに同調した人が大勢いたということにもショックでした。
 さらに、自分も昔、にたような体験があったことを思い出したために、なおさらショックをうけました。そこで、今さらなのですが、月刊『風のたより』誌上において、もう一度「旅」について語りたいと思い、この文(『旅人的生活の方法』)を書く決意をしました。
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